天地人・直江兼継の生涯

直江兼続の生涯

直江兼続(なおえ かねつぐ)は、2009年のNHK大河ドラマ「天地人」で一躍脚光を浴びた戦国時代から江戸時代前期にかけて上杉氏の家老として仕えた武将です。



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直江兼続は、桶狭間の戦いがあった永禄3年(1560)、坂戸城主・長尾政景の家臣・樋口兼豊の長男として、現在の南魚沼市に生まれました。幼名は与六(よろく)。早くから聡明さを見込まれ、政景の子・景勝(後に上杉謙信の養子)の近習に取り立てられます。

天正9年(1581)に、与板城主・直江信綱が殺害されると、名家の断絶を惜しんだ景勝は、信綱の妻・お船と兼続を結婚させます。この時の兼続は22歳、お船25歳であり。3歳年上のお船は上杉家執政として奔走する夫を陰で支え、兼続は生涯側室を持たなかったといわれています。

さらに兼続は、直属の家臣団・与板衆を中心に治水事業や産業振興を推し進め、城下町与板の基礎を築き上げます。与板地域の伝統工芸品・打ち刃物」の起源は、兼続の時代頃だと伝えられています。
兼続は、主君上杉景勝(かげかつ)とは大酒を酌み交わすほどの親密な仲でした。「兼続は上杉家の舵(かじ)取りを任せられる大きな器の持ち主」と、景勝から絶大な信頼を得ていたことが上杉家文書に出てきます。

天正16年(1588)、兼続は豊臣秀吉から「豊臣」姓を授かりました。秀吉は兼続を「天下の治世を任じ得る人物」と絶賛したといわれています。

また兼続は、南化玄興(なんかげんこう)、西笑承兌(せいしょうじょうたい)といった学僧とも親交を結び、多くの漢詩や句を残すなど、当代きっての文化人でもあったと言われています。
慶長3年(1598)、景勝が会津120万石に移封されると、兼続は景勝の下臣では異例の米沢6万石を任されています。徳川家康から景勝にかけられた謀反の嫌疑にも、理をもって堂々と反論。これが世に言う「直江状」です。

関ケ原の合戦後、上杉家が米沢に減封されてからも、君主・領民のために力を注ぎます。元和5年(1619)、兼続が江戸で60年の生涯を閉じると、米沢藩の領民をはじめ多くの人々がその死を惜しんだと、上杉家の記録は伝えています。

2009年のNHK大河ドラマ「天地人」で一躍脚光を浴びた直江兼継という一人の武将の生涯はどのような人生だったのでしょうか?

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